Trip
Issue : 19
香林居|桃源郷のような宿で、街が纏う空気と文化に出会う
古くから異文化が交わる拠点だった金沢。ここに、単なる“旅先の寝床”ではない宿ができた。何層もの伝統文化が折り重なる街で、地域の空気感をはらみ、どこか予定不調和な出会いが期待できる。旅慣れした人達からそんな言葉を聞いて、一見ホテルとは思えない佇まいの「香林居」を訪問した。
異文化の交流する香林坊で、内なる世界を旅する
石川県金沢市の中心地には、名だたる銀行、新聞社、放送局が一同に集まる北陸一の商業エリア、香林坊がある。ここは古くから北陸の経済と情報の発信源として栄えてきた街。「兼六園」や「金沢21世紀美術館」といった、時代を象徴するエポックメイキングな美が点在し、加賀藩の歴史から熟成される伝統文化が今なお更新されるエリアだ。
そんな香林坊と金沢21世紀美術館をつなぐ百万石通りに、約50年ぶりに息を吹き返したビルがある。かつて九谷焼をはじめ、世界の工芸品を扱っていたギャラリービル「眞美堂」が、2021年に「香林居」というブティックホテルとして蘇ったのだ。
訪れる旅人それぞれに、時間と価値を処方する
老朽化で取り壊しや建て替えの声が出るなか、大規模な改修工事を経て、“新しい金沢時間を処方する”場へと生まれ変わった香林居。そのコンセプトは、安土桃山時代に薬種商を営んでいた向田香林坊という僧に由来する。“夢枕のご神託から作った目薬で、前田利家の目の病を治した”という薬に基づく逸話から、“一人一人に合わせて処方するホテル”という在り方に行き着いたそうだ。
そんな処方の観点から、ホテルの一階には昔の目薬を作る“蘭引(ランビキ)”の現代版、蒸溜機が設置されているのも面白い。抽出された精油はホテルの部屋の香りづけに、芳香蒸溜水はルーフトップサウナのロウリュウ水に利用されている。
外装のアーチから生まれた、幾何学的な空間のリズム
異国のようなホテルの廊下を進んでいくと、至る場所に施された美しい曲線に気づく。九谷焼のルームサインのアーチ、客室ドアのアーチ。部屋に入れば、ベッドの天井も窓もインテリアもアーチ型だ。これらは、前身となる眞美堂ビルの印象的なアーチのファサードからインスピレーションを得たもの。半世紀前の当時、金沢の一等地で金属パネルと大きなガラスで構成された外装のアーチデザインは、どれほど多くの人の目を引いたのか。想像するに容易い。
とかく何かしらの箱の中で生活する私たちが、柔らかな円弧で構成された空間で過ごす。たったそれだけで、非日常へ誘うフックとなっていた。
土地に充満する空気を纏った建築
部屋で過ごしているうちに、気づいたのは不思議なまどろみだった。円弧の多い空間では、自分自身の気持ちまで丸く穏やかになっていく。それだけでなく、香林居の空間は通常のホテルより1トーン暗いようだ。
日本で最も雨の多い金沢は、街の輪郭がいつもどこかぼやけて見える。どの街角もほのかにグラデーションがかかり、その朧げで美しいトーンがまるで館内にも続いているよう。雨の日に泊まるとまた格別で、微かな雨音を聴きながら部屋で香豊かな台湾茶やハーブティーを味わったり、ラウンジで本を読んだり、屋上のサウナに入ったりと、土地に充満する文化的な空気に浸りたくなる。
ここから、土地の鼓動が静かに溶け合う客室で、安らかな空間づくりのヒントを探してみた。
無彩色の空間から生まれる明暗の美
客室での時間が、緩やかに感じる。その理由は、暗い部屋でも明るさに固執しない空間づくりにあるのではないだろうか。表の大通りに面したアーチ窓のある部屋は自然光が注ぐものの、奥の部屋に行けば行くほど採光は取れない。だからといって壁を白く塗ったり、インテリアに彩色を加えたり、照明を多用することはない。モルタル仕上げのグレーの世界で、この深みのある時間を享受しているのが印象的だった。
それゆえ、窓の向こうの景色が、絵画のように浮かび上がる。内装の色を削ぎ落としたぶん、外の世界の鮮やかさが引き立つのだ。朝でも夜でも、好天でも曇天でも。訪れるたびに微細に変わる、窓からの金沢の街。この1枚のフレームが、旅の心象風景に不思議なほど残りやすい。部屋の色彩というのは、外界の光を受容するものなのだと学ばせてもらった。
ちなみに、アーチ窓が備わる「ハイフロアスイート(ビュー)」の客室では、湯船に浸かって景色が楽しめるように、浴槽の角度をミリ単位で調整したとのこと。リビングや寝室にバスルームが直結する欧州のホテルのように、ここでは最も眺めの良い場所を浴室に設定している。寒さ厳しい金沢の冬も長く入浴できるようにと、浴槽は琺瑯素材だ。スペシャルな眺望の特等席が浴室、そんな選択肢を自宅に取り入れるのも面白い。
日常のカーテンの可能性を刷新する
次に、香林居の中でも採光の取れない側に位置する「ハイフロアスイート(サウナ)」へ。ドアを開けると、一瞬視界に光が反射した。よく見ると、目の前でカーテンが揺らいでいる。ドアを開けたとき、ベッドルームやリビングが丸見えにならないための配慮のようだ。ただし、普通の布ではない。透明の繊維で織られたカーテンにはアルミ蒸着があしらわれ、吊すと薄い金属がユラユラと揺れているように見える。これは大阪の「ファブリックスケープ」が手がける製品で、明るい春の波間を思い出す。生活用品のカーテンではなく、もはやアートに近い。
pick up item
ソファの前に配置された重量感のあるコーヒーテーブルは香林居のオリジナル。空間に取り入れた直線や円弧を家具でも表現すべく、インテリアデザインを担当した「ひとともり」長坂純明氏と、館全体のアートディレクションを担った「SUN-AD」の藤田佳子氏のデザイン監修の元、オーダーメイドで制作されたものだという。 幾何学的なリズムとトーンが部屋と家具に馴染み、心地よい存在感を放つ。
採光が限られる「ハイフロアスイート(サウナ)」の部屋では、ステンレスと藤素材でできたスペクトラム社のアームチェアを合わせ、窓から光が注ぐ「ハイフロアスイート(ビュー)」の客室では重量感を纏うローソファと合わせる。空間によってコーディネートを変えることで、軽快さと重量感のコントラストをさらに引き立たせる工夫が見えた。
ホテルとして生まれ変わる前、金沢の街の記憶に深く刻まれていたであろう眞美堂ビル。かつての香林坊エリアで最も高い建築物とされ、日本海も見渡せたらしい。さまざまな国の文化や歴史が混じるこの豊かな土地とリンクするように、香林居には異国のような趣きがある。
光、音、匂い、時間、揺らめき。新築であれば、きっとこんな蓄積された美も儚さもなかったはずだ。異文化、異世界、桃源郷、どこかかりそめのような浮遊感。建物の歴史の重みと相まって、他では得られない自分にとっての「金沢時間」を処方してくれる。それはきっと、訪れるたびに姿を変えてくれるに違いない。
Editor’s Voice
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「香林」とは、異民族と異教徒が共存して暮らす理想郷のこと。古くから漢詩や文学で詠まれ、数多くの文学作品にその言葉が残っている。歴史の中でさまざまな人が思い描いてきた平和な桃源郷。金沢の商業エリアのど真ん中にありながら、俗世から切り離されたような不思議な空気の香林居は、まさにそんな場所だった。自分の欲していた安息の時間が、訪問するたびに姿を変えて現れる印象がある。それは安らかな睡眠だったり、地域文化との触れ合いだったり、心身のメンテナンスだったり。ここを訪問することで、今自分が欲するものが具現化されるようだ。次の訪問が楽しみでならない。
Tokiko Nitta(writer)
Staff Credit
Written by Tokiko Nitta
Photographed by Kazumasa Harada
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