Interview
Issue : 36
Chaosディレクター・櫛部美佐子|人も自然も、自分らしい距離感で。軽井沢で手に入った健やかな移住計画
“泊まるように暮らす”人に聞く、暮らしの哲学。大人のための上質な日常着を提案する「Chaos(カオス)」のディレクター・櫛部美佐子さんを取材。「旅が人生そのもの」と話す櫛部さんの自宅には、世界各地から収集されたユニークな工芸品が並ぶ。長年の東京住まいに終止符を打ち、40代で始めた軽井沢ライフから見えてきた、自分にとっての心地いい空間を伺う。
40代で決意した、東京から軽井沢への完全移住
多くの観光客で賑わう軽井沢駅を離れ、森の中を車でどんどん進む。高く広がっていた秋空はあっという間に姿を消し、ミズナラやコナラで頭を覆われた林道は、まるで童話の世界だ。あたりに人の気配はなく、小動物の足跡と鳥のさえずり。車を降りると空気がツンと冷えて、すでに冬の気配が近づいていた。
一軒家から朗らかな笑顔を覗かせたのは、「Chaos」ディレクターの櫛部美佐子さん。3年前に東京から軽井沢への移住を決め、現在、築40年の賃貸物件で暮らしている。
「目黒に家を買って暮らしていたのですが、4年ほど前から自然の多い場所で暮らしたい気持ちがどんどん膨らんできて。海辺の葉山と軽井沢で迷った結果、緑の多さから軽井沢に決めました」
今や移住の激戦区になりつつある軽井沢。一体どうやってこの物件に出逢ったのだろう?
薪割りから始まった軽井沢の冬じたく
「最初はネットで物件情報をチェックしていたのですが、ある日、サイトに気になる賃貸物件が上がってきて。不動産会社に連絡したら、朝に情報解禁されたものの、既に昼には内見予約が4件も入っていたんです。慌てて翌日に軽井沢へ向かい、1番目に内見させてもらいました。家に入った瞬間に“ここに住もう”と決めていましたね」
即決の理由はいくつかあった。まず、大きかったのは希少な賃貸物件だったこと。土地勘のない軽井沢でいきなり家を購入するのはやはり不安だった。今回出逢った物件は、軽井沢でも数少ない賃貸。築40年で至るところがボロボロだったものの、大きな窓や高い天井、広い庭など、魅力的な要素に溢れていた。
高騰しつつある軽井沢の土地の中でも、ここは特別に安かったという。ここで即決しなかったら、もはや手に入らない家だと直感した。
しかし、2年ほど人が住んでいなかった別荘地は、ガスが出ない、水漏れする、デッキが腐っているなど、改装に3ヶ月も費やすことに。手直しを重ねて、ようやく住めるようになった時は感動した。
軽井沢の冬は凍るように寒い。薪ストーブと石油ストーブのどちらも必須だ。寒波の際は、朝起きると家の中がマイナス5℃まで下がり、吐く息も真っ白だった。
「軽井沢に来て、生まれて初めて薪割りをしました。これが本当に難しくて」と、思い出して吹き出す櫛部さん。庭先に出ると、美しく割られた薪の横に、不恰好な薪が積まれていた。うまく割れなくて自分で裂いた薪だそう。
暖を取るにも、まず薪から準備しなくてはならない。ほとんどのものが当たり前に提供される東京暮らしとは180度違う生活。しかし、その手間が愛おしい。
寒さが厳しい冬も、満点の星空に出逢える喜びや、美しい小川のせせらぎに癒される。
東京でのうだるような猛暑は影を潜め、エアコンのいらない涼やかな8月を知った。
心の片隅にあった願いが叶った、人生のネクストステージ
さらに、軽井沢暮らしで大きく変わったことがある。近辺に住む人も少ないから、念願だった保護犬を迎えることができた。
「都内で暮らしていた時は犬が飼えなかったので、軽井沢でついに念願が叶いました。朝と夜の散歩は、どちらも4キロほど。結構な運動量なんですよ。夜型だった私の生活も、完全に朝型に切り替わりましたね」
食事面も大きく変化した。東京では夜がほぼ外食だったものの、ここでは毎日が自炊。もともと料理が好きだった櫛部さん。軽井沢では自宅で過ごす時間が格段に増え、料理好きに拍車がかかった。
ちなみに、地方に移住すると、そこのコミュニティに馴染めるかが懸念材料に挙げられるが、櫛部さんの場合はどうだったのだろう?
「何の不安もありませんでした。ここが別荘地エリアだったこともあり、近所の人たちも外から来た人ばかり。もちろん、犬を連れていると、同じように散歩中の人と話すこともありますけど。地方で聞くような“村のコミュニティに属する”といったこともなく、とても気楽です」と話す。
しかも、週末ごとに他県から友人が泊まりにくる櫛部邸。平日は粛々と仕事を進め、週末は気の置けない人らと過ごしている。新幹線に乗れば1時間で東京に着く距離感からも、寂しさは皆無という。
「週2回は東京に出て仕事をしています。逆にオンオフのメリハリがついて、快適に仕事が運ぶようになりました」
なぜか、みんなが通いたくなる軽井沢の住まい。取材した前日も、数人が宿泊していたという。そんな魅力的な櫛部さんの空間づくりのポイントを伺った。
自分という器の中に、いつも旅が中心にあった
櫛部さんの空間づくりは、高い天井を活かすために背の低い家具を置くことだという。
リビングの主役になっている立派なウォールナットのテーブルも低めだ。みんなで座って1つのテーブルを囲むのが好きだという。
これは、さまざまな発展途上国を旅してきた櫛部さんの経験に起因しているのではないだろうか。
仕事ではパリやニューヨークなど都市部に出かけることが大半だが、プライベートでは一変、インドネシアやネパール、トルコ、モロッコなど、辺境の地を旅する櫛部さん。
ミャンマーの山岳地帯に住むミャオ族を訪ねたこともあった。最近では北インドで10日間のアーユルヴェーダを体験してきたという。
そういった国では、家族や縁者が床に座って食事を囲む部族が多い。
櫛部さんが旅に出る理由を聞くと「今ある自分の生活から真逆の価値観を求めて旅に出る」という答えが返ってきた。
辺境の地で触れた独自の信仰や思想、文化に、心が揺さぶられるのだという。
「インドに行くと、未だに貧富の差が激しいんです」と、櫛部さん。
1950年にカースト制度は廃止されたものの、未だに人々の暮らしに深く根付いている。
「ボロボロの布を纏ったおじいさんが、自分より貧しそうな人を見つけると、躊躇なく施しを行うんです。自分も決して裕福ではないだろうに。そこには、きっと信仰する宗教の教えが根底にあるんだと思います。自分にはないそういったカルチャーを目の当たりにすると、都会の華やかで洗練されたものを見るよりも感動します」
そんな旅の軌跡が、櫛部さんの部屋からは見て取れる。
インドネシアの祭りに使われたお面がいくつも壁に飾られ、グリーンに囲まれた空間に溶け込んでいた。旅先から大切に運んだ、向こうの文化や風習が部屋の隅々に生きている。
職業柄、流行を取り入れること、流行をつくることは切っても切り離せない。
しかし、本人が強烈に惹かれるのは、どこか流行とは無縁。
同じ人間でも、国が違えば異なる思想や信仰。そこから放出される精神的な美を吸収して、櫛部さんはデザインに落とし込んでいる。
住まいも同様。購入した東京の家と便利な都会暮らしを手放し、築40年の住居を修理して、薪割りが必要な暮らしを選んだ。
便利なものや流行に重きを置かない、櫛部さんの軽井沢暮らし。それは、地方のローカルルールに無理に馴染まなくてもいいという、精神的自立を我々に教えてくれた。
Editor’s Voice
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後日、櫛部さんがディレクションを務めるブランドの新店に足を運んだ。洋服に混じって、歴史的背景の深い伝統的なアイテムが大事に置かれていた姿が印象的だった。売れるものをつくるのはデザイナーとしてもちろん大切だろう。けれど、物が物として、その一生を全うできることにこそ重きを置いている。そんな櫛部さんの美意識が、住まいと店舗に反映されているように思う。
Tokiko Nitta(Writer)
Staff Credit
Written by Tokiko Nitta
Photographed by Eichi Tano